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いまから約400年前。
世は戦国時代。関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、翌年1601年に次男である結城秀康に越前の国(現在の福井県嶺北地方)を与えた。その際、領内の要所の守りとして府中(現在の福井県武生市)の領主になったのが、結城秀康の重臣、本多富正である。 彼は代々松平家(徳川家)に仕えてきた本多家のもので、武功練達の名門の家柄でもあった。しかし民政にも優れていた彼は、府中を流れる日野川の治水工事や、北陸道の整備、さらには地場産業の発展にも力をいれ、府中の町を栄えさえ、明治維新までの約260年間もの間府中は本多家によって治められたのだった。 そしてこの本多富正こそ、ふくいに『おろしそば』を定着させた人物の1人なのだ。 ちなみにふくいで食用としての『そば』の始まりは、一乗谷遺跡で有名な朝倉氏が栽培を奨励して広めたのが最初である。『そば』は戦国時代に籠城(お城にこもって戦う状態)時の非常食や、兵糧として重用されていたからだ。 …しかしそれはなぜか。 まず、栽培に理由がある。お米と違い短期間で収穫出来ることがあげられる。お米は約120日で収穫できるのに対し、『そば』は種をまいてから約75日で収穫可能だという。これならば合戦の合間に栽培して兵糧食にもできたはずだ。 さらに、土地を選ばないということがある。『そば』は虫も食べないと言われている蓼(たで)科に属し、育成するには痩せ地が最適という性質を持っている。つまり通常の畑を持ちにくい城中でも栽培出来る食料として重宝されていたようだ。 そしてもうひとつ、お米に比べて栄養価が非常に高いことがあげられる。当時の『そば』は薬草的な位置付けもあったようで、具体的な使い方としてお通じをよくする薬としても用いられていた。 本多富正はこういった長所を生かし『そば』を救荒作物として城下に奨励したのだ。 だがこれだけで『おろしそば』は誕生しない。 …もう1人の人物が誕生の鍵を握っているのだ。 |
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